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スタッフブログ

EKIDEN100年の歴史

2020/06/26



まずは新型コロナ感染症のため亡くなられた方々、謹んでお悔やみ申し上げます。また、現在闘病中の方々、一日も早いご回復をお祈りいたします。


さて日本発祥の団体ロード・リレー・レース、駅伝は、海外でもそのままEKIDENで通用します。元々は、江戸時代、急いで届ける情報や手紙などを走って繋ぐ街道の飛脚の制度がベースにありました。大正6(1917)年、東京市(今の東京都)は、都が東京に移された節目の50年目を記念し、上野不忍池(しのばずのいけ)で『東京奠都(てんと)五十年奉祝博覧会』を開催しました。この博覧会のために各新聞社は様々な協賛事業を計画しました。中でも読売新聞は、「京都から東京まで、人の手で引き継ぐ宿場ごとのリレーをやっては?」という原案を出し、京都三条大橋をスタート、東京上野不忍池畔内の博覧会場をゴールと定め、距離は127里(=508㎞)、昼夜兼行走破する選手を選出し、コースの要所要所十数区に配置し、マラソンリレーを行おうということを決定し2月に社告で発表しました。これがわが国最初の駅伝競走の開催へとつながったのです。大会の名称は、同年3月1日の朝刊で「専門家並びに当事者よりなる顧問、委員および幹事は、数回の協議を重ねて精査熟慮苟(いやしく)もせず、その後様々熟議の結果、その名称を特定して『奠都記念駅伝徒歩競争』とすることとなったのである。将来之と同様形式における競争はすべて之による事となるであろう」と大々的に発表されました。まさに予言通りそうなりましたね。しかし当時の選手層の薄さでは実際のレースで20㎞の距離を走り切れる選手の数には限りがあり、結局、関東組と関西組の2チーム対抗という形になりました。3月7日午後2時、50年前に明治天皇が京都御所を出発し東京に向かわれた時刻に合わせてスタートの号砲が鳴り響き、関東組(紫色の襷)、関西組(赤色の襷)の2選手が元気よく飛び出しましスタート。この途方もない一大レースの様子は、大会数日前から通過各地の状況や雰囲気、審判や地元協力者名簿、選手紹介、宿舎等の詳細に至るまで、読売新聞紙上に大々的に報じられました。各区間での記録やレース経過の詳細も翌朝の紙上に掲載されました。観客も熱気をもって選手達を迎えたそうで、今日の国民的大行事である箱根駅伝の原型をここに見ることができます。レースは関東組のアンカー、金栗四三選手(以前のブログにも登場)が日曜日の博覧会場を埋め尽くす大観衆が見守る中、不忍池端を一周し、ゴールへ飛び込みました。さぞ気持ち良かったろうな。この奠都記念駅伝競走の大成功が起爆剤となって、世界に通用するマラソンランナーの育成を願い、3年後の1920年に箱根駅伝が誕生するのです。箱根駅伝のスタートが読売新聞社前であるのも歴史的理由があったのですね。1918年~1920年は世界でスペイン風邪がパンデミックとなり、日本も例外ではなく多数の感染者、犠牲者を出しましたが、そんな中、箱根駅伝の準備は着々と進められ実行にこぎつけたのですね。


さてその100年後となりますが、2月16日、第51回入間東部地区駅伝競走大会が開催されました。ふじみ野市第2運動公園をスタートして、富士見高校周辺を周回する全5区間18.9㎞のコースを、雨の中、ふじみ野市・富士見市・三芳町から総勢82チーム410人のランナーが参加して懸命に襷をつなぎました。小生の所属する東入間医師会駅伝部は、このたび初めて2チームの出場メンバーが揃い、小生は最短区間の2.3㎞で第2走者(忘年会であみだくじで決めた)として出走しました。昨年、脚の故障のため初めての出場を直前で断念したので、今回の出走は嬉しかったです。一人で走るマラソン大会と違って、駅伝競走はチームの連帯感が生まれて楽しいですね。ところで第2走者として走っていたのですが、襷をもらってまもなくのこと、すごい勢いで走る2人のランナーにあっという間に追い抜かれました。走力差のためとてもついていくことはできませんでしたが、走路に設置してあったコーンの箇所で2人が並んですばやく右折していくので私も思わず追走していったのですが、すぐにスタッフに呼び止められ、コーンで折り返すよう注意されました。なんと私を追い抜いて行ったのはトップを並走して走る第3走者だったのです。あれだけレース前に走路を頭に叩き込んでいたのにやってもうた。恥ずかしい。タイムロスもあり設定した目標タイムには遠く及びませんでしたが、無事第3走者へと襷をつなげました。このあとは、ひと風呂浴びて駅伝チームのメンバーと反省会へ。


小生としては、実に、中学校時代の運動部対抗駅伝以来の駅伝出場でした。“いがぐり頭”で、柔道着を着て、運動靴で走るという「地元の女子学生には恥ずかしくてみられたくない」シュールな恰好でした(小生の中学校は男子校)。校庭をスタートし、海岸沿いを走って、折り返して戻るというコース。3~4㎞だったと思いますが、第一走者を担当し、力走で健闘した結果、先頭集団にあまり遅れをとらず戻ってきたので、待っていた先輩達からびっくりされ、いがぐり頭を叩かれて祝福されたのを覚えています。柔道部は毎年最下位の常連だったのです。


緊急事態宣言下のゴールデンウィーク直前に、駅伝部幹部からLINEが送信されてきましたのでそのまま掲載します。
「5月5日、Zoomを使ったバーチャル駅伝を行います。以下の要領ですので是非ご参加ください。大会要項 10時スタート雨天順延 開会式9時45分 選手宣誓 あみだで2区になった人、 最終コール 9時50分 出走順はインターネット「オンラインあみだくじ、あみだ.com」で決める。参加表明順に番号を決めます。その番号順にあみだを引いたことにします。あとはネット上のあみだ様にお任せします。感染拡大防止のため、マスクは必ず着用してください。出走順に自分の順番が来たら一人10分(5分かも)走ってください。スマホを持ちながら、カメラを前に向けて、全員がそのコースを走っているように感じられるように走ってください。みんなに自慢したいようなコース、笑える場所などを選んでそこで走ると良いでしょう。ヘッドフォンを使ったほうが良いと思います。けがをしても病院はどこもいっぱいですから、転んでけがをすることのないようにしてください。10分経過したら次のランナーに襷を渡します。襷の代わりに、カメラに向かってハイタッチをするように手のひらを向けてください。次のランナーはそれを受けて走り始めてください。他の選手は声援を送ってください。アンカーがゴールしたら集合写真を撮りましょう。Zoomの画面上で撮ります。なんといっても人類史上初めての試みですので、予期せぬハプニングがあると思いますが、楽しくやってみましょう。」きちんとした大会要項の内容、日本人的で素晴らしい。小生は第5走者。好きなコースである所沢航空公園内を、人混みを避けるように走りました。慣れないせいか、途中スマホと、bluetoothイヤホンを落っことすというハプニングもありましたが、無事完走。次の走者に襷(スマホカメラにハイタッチ)をつなぎました。スペイン風邪(1918-1920)大流行から100年、COVID-19大流行を迎えています。今年我々東入間医師会駅伝部によりEKIDENは“バーチャル駅伝”へ新たな進化を遂げたのでした。もちろん、アフターではオンライン反省会。


上野の山、不忍池は、戊辰戦争の一つ上野戦争の舞台です。官軍の放った砲弾が不忍池に着弾したのがきっかけだとか。激戦は当初旧幕府軍の優勢でしたが、官軍が盛り返し、結局1日で終わり、旧幕府軍に多大な犠牲者を出したとされています。『夏草やつわものどもがゆめのあと』もともと不忍池は現在のような楕円形ではなくて複雑な形状をしていたのが、明治の鹿鳴館時代に、湖畔を競馬場として整備されたので現在の形状にその名残を留めているようですね。冬は渡り鳥の季節、「まがも」など沢山の野鳥が訪れます。池畔には創業300年の老舗うなぎ料理で有名な伊豆栄(いずえい)がありますね。ここの鰻を食べることは学生の頃は大変な贅沢でごちそうでした。昭和天皇のお気に入りの鰻でしたね。ところで上野不忍池に向かって下るひっそりとした坂道がありその名は無縁坂です。かつて存在した無縁寺にその名は由来します。江戸時代の地図にもその名が残っている坂です。東西に200メートルほどの坂、南側には旧岩崎邸の石垣が続きます。明治の文豪、森鴎外の小説『雁(がん)』は、この界隈を物語の舞台としており、主人公の岡田青年は、無縁坂を散歩道としてよく歩いていました。


寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。


今は現存しない川ですが、かつては不忍通りに並行して流れており、ホタルの名所だったとも記録されています。谷中(やなか)に『ヘビ道』と称される、クネクネとした路地がありますが、かつてはこの藍染川の名残りであることを物語っています。小生かつて西日暮里に住んでいたことがありこの無縁坂や不忍池湖畔に続きヘビ道をチャリで走ってた。この坂の中途に高利貸しの旦那「末造」の妾として暮らす女「お玉」がいます。いつも一人で散歩する岡田青年に恋心を抱きます。とある日、ヘビの青大将が籠の中の鳥を狙って、籠へ首を突っ込んだという事件がおこり、岡田が頼まれて青大将を出刃包丁で退治し、お玉と岡田は初めて会話します。後日、末造が来ない日を狙って、まもなく洋行してしまう(お玉はそのことは知らない)岡田に想いを打ち明けようと待っていました。たまたま語り手の「僕」が下宿先の飯のおかずのサバの味噌煮が嫌いだったので岡田を含め三人で外食しようと坂を下ります。そのためお玉は機会を失ってしまいます。夕食の帰り道、不忍の池で石を放ったところたまたま石が雁一羽に当たってしまい死なせてしまいます。ちょっとした偶然によって運命が決まってしまうということを示唆した物語と若い時に読んだきりでそういう単純な読後感をもっていましたが、もう一度読んでみたくなりました。
 
もう一つこの坂を有名にしたのは、さだまさしさん作詞作曲の名曲『無縁坂』ですね。


この坂をのぼるたび いつもため息をついた、、、、
運がいいとか、悪いとか ひとは時々口にするけど そういうことって確かにあるとあなたを見ててそう思う 忍ぶ 不忍(しのばず)無縁坂 かみしめるような ささやかな 僕の母の人生 


この歌は、さだまさしさんの幼い頃の母の思い出なのでしょうか、それとも創作なのでしょうか。鴎外の『雁』の影響を受けているのは間違いありませんね。


京都三条大橋にもありますが、不忍池畔に『駅伝発祥の地』の記念碑が建っています。真夏の日曜日早朝に、“上野公園マラソン大会”が毎年開催されます。朝8時スタートし、上野公園や湖畔をグルグル周回するハーフのコースではゴール地点がこの記念碑横に設定されているようですね。今年は開催されないと思うので、来年コロナ感染症が終息していたらエントリーしてみようかな。近くに入浴施設あるかな。夏のマラソンはやはり、走ったあとにそのまま帰宅せず、近くで入浴し汗を流したいですね。こういったアフターを事前に調査計画するのもマラソン大会の楽しみの一つとしています。いわゆる旅ランみたいなものですね。たとえば赤羽方面の荒川河川敷のマラソン大会は昨年、今年とよく参加しましたが、ラン後は、近くの銭湯「お玉の湯」で汗を流してから赤羽へと足を運びます。お玉の湯のお玉は「雁」の登場人物のお玉とは関係なく、かつてよくある女性の名前なのでしょうね。