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チャイコフスキーの一声

2020/08/14

 

 

エントリーしていたマラソン大会も次々とキャンセルとなり、一人ランに精を出している日々です。今回、越辺川(おっぺがわ)に沿ってランを2回に分けて坂戸~川越間往復を走りました。寄り道を含めて総長で約40㎞。1回目は、島田橋から川越の254号線、落合橋手前までの往復です。2回目はその1週間後、こんどは島田橋から坂戸までの往復。昨年11月の台風19号ではこの越辺川が氾濫し、大きな被害が生じました。被災された方々、心よりお見舞い申し上げます。島田橋は坂戸市島田と東松山市宮鼻地区との間にかかる冠水橋です。木造で古の趣きがあり、映画やドラマのロケにたびたび用いられるので有名ですね。前々回のブログに登場したドラマ「仁」の中でも、島田橋がたびたび登場しました。そう坂本龍馬役の内野聖陽が気持ちよさそうに立小便していた橋です。たまにすれ違うランナーや散歩する方たちもマスクやネックゲーター装着して暑いのにご苦労様です。仲間同士集まってラジコンの飛行機(懐かしー)を飛ばしている人たち。鳥の写真を撮影しようとじっと腰かけて待機する方もみかけました。休日の過ごし方は人それぞれですね。さて川越市の落合橋の手前で、川島町の白鳥の渡来地があります。冬ではないので、シベリアから渡来する白鳥たちをみることはなく、ただ寂しい川面を眺めるのみでしたが、ここは都心からもっとも近い白鳥の渡来地のようですね、初めて知りました。2回目のランは坂戸方面で途中高麗川に寄り道しつつ、越辺川を往復しました。越辺川沿いのランロードが1回目のランロードと比べて十分整備されておらず、脇道を走らざるを得ないこともありましたが、越辺川にかかる橋梁を走る東武東上線の車両を、線路の真下から眺めることが出来たのは良かったです。のんびりランしながらバードウオッチングしましたが、写真は坂戸市今西地区でみかけたキジ(雄)です。日本の国鳥ですね。

 

小学生5年生のとき、半年間学校の“鳥小屋”がかりをしていました。割と大きな鳥小屋で、クラスの生徒有志が、2チームに分かれて、1周(50mはあったと思います)ずつリレーするかけっこ遊びをしたくらいです。アヒルや孔雀、鶏を飼っていました。キジがいたかどうかどうしても思い出せませんが、今回のランで懐かしいような気がしたので、きっと飼っていたのでしょう。お昼休み後の生徒による一斉の掃除時間を利用して、鳥小屋がかりは、まず池の水を抜いて清掃と餌やりをするのです。給食室のおばさん(おねえさん?)にその日の餌をもらってきて、アヒル達にせっつかれながら餌やりします。さて5年ほど前に、法事のために帰阪した際、小学校へ立ち寄ってみました。守衛の方にお断りして、正門入ったところの二宮尊徳の石像や鳥小屋を外から写真に納めてきました。校舎など大分変っていましたが、鳥小屋が昔のままあって嬉しかった。鳥小屋と餌の匂いが懐かしいです。私が卒業82期生という古くからある学校で、木造の校舎は映画“ボクちゃんの戦場”のロケ地に使用されたくらい立派でした。
ところで学校からそう遠くないところ、淀川にかかる長柄橋(ながらばし)があります。言い伝えによると、はるか昔、この橋を架ける工事が行われました。しかし川が度々氾濫して工事は難航していました。近くで雉が鳴く中、ある夫婦が通りかかり、夫がこうつぶやきました。「袴の綻(ほころ)びを白布でつづった人をこの橋の人柱にしたらうまくいくだろう」 これを聞いた橋奉行らは、その男(夫)がまさにその通りの恰好をしていることに気づくと、すぐに男をとらえてその場で人柱にしてしまった。そして橋はみごとに完成したと。夫を失った妻は悲しみ、次なる句を詠んで淀川に身を投じてしまったという。「ものいへば 長柄の橋の橋柱 鳴かずば雉の とられざらまし」14世紀頃の「神道集」に収められている話だそうです。「キジも鳴かずば撃たれまい」のルーツとされています。
さてキジの鳴き声がどんなだかご存知でしょうか。「ケンケン」とか「ケーン」と形容されますね。“けんもほろろに”とはキジの鳴き方から来た言葉とか。キジはただでさえ草地をのろくあるくため漁師に狙われやすいが、縄張り争いのために大きな声でなくので、さらに狙い撃ちされやすい状況になってしまうのですね。その肉は美味で国内外問わず代表的なジビエ料理ですね。古くは徒然草118段に、鳥には雉、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿の上に懸かりたるも苦しからず。とあります。そうか松茸と並ぶ評価なのですな。

 

白鳥の優雅に泳ぐさまは、サンサーンスの組曲「動物の謝肉祭」の中にサンサーンスのオリジナル曲(風刺の曲ではなく)として、最も有名ですね。チェロの演奏曲として超有名ですね。白鳥ついでに、有名な「白鳥の湖」のバレエをご覧になった方もおられるでしょう。何と言っても尤も有名なバレエの演目ですからね。チャイコフスキーの3大バレエの一つ。白鳥に姿を変えられたオデットとジークフリート王子の踊り、素敵ですね。ところで実際の白鳥はというと、羽毛は真っ白であるものの、短足で、ずん胴(ごめんなさい)。泳ぐ姿はまだしも歩く姿はお世辞にも優雅とはいえません。なぜこんな白鳥からあのような物語やダンス(振付)のインスピレーションが生まれたのか不思議でした。ネット情報の域を出ないのですが少し調べてみました。ある日本の音楽研究者によると、白鳥の湖のダンスは、白鳥からインスピレーションを得たのではなく、実はタンチョウの求愛ダンスをヒントにしているのではないかということです。実際にバレエダンスのリズムとタンチョウの求愛ダンスのリズムが一致するとのことです。ほんとかな。
ところで、お若い方の中には、白鳥と鶴(タンチョウ)の区別が今一つわからないという方々もおられるかもしれません。そこで念のため少し解説しましょう。ともに渡り鳥であるには違いないですが、タンチョウの場合はわが国では現在留鳥(りゅうちょう)としてのみ生息します。またタンチョウは泳ぐことはほとんでできませんので、歩くか飛ぶのみです。タンチョウとはもちろん丹頂鶴のことで学名Grus japonensis 、日本で鶴といえばこのタンチョウを普通意味します。タンチョウは、ロシアのアムール川流域に生息し中国や朝鮮半島に渡り鳥として飛来するものと、留鳥として日本の北海道の湿原に生息するものがあります。中国でもこのタンチョウは人気があり、かつて中国の国鳥を制定するにあたって国民に人気投票をおこなったところ、圧倒的多数でタンチョウが一位であったとのことです。ところが、学名にjaponensisと日本名が入っているために没になったとか。そのために中国には未だに国鳥が決まってないそうです。ちなみに日本は先述の如く雉(きじ)でしたね。
タンチョウは、かつて江戸時代には、少なくともはるばる江戸まで飛来したようで広重の浮世絵にも描かれています。将軍の鷹狩りの対象とされ、朝廷へ食用として塩詰めされて献上されたということです。ただし肉は堅くてお世辞にも美味とはいえないらしい。明治になると湿原の消失とともに生息数が減少し、日本においてほぼ絶滅したのではないかとされていましたが、北海道で偶然数十羽が確認され、地元の方たちの餌やり、国の保護もあってその数を増やして今日に至っているようです。タンチョウは鳥としては比較的長命(鶴は千年というが30-40年くらいらしい)で、オスメスが互いの身体を絡ませながら(ただ見ただけではどちらがオスかメスかは区別できないらしい)求愛ダンスをします。また一度つがいになると仲良く暮らし、いずれかが死ぬまで一生添い遂げるのだそうです。永遠の愛を誓い守るなんてロマンチックですね。これは確かに白鳥の湖のテーマ「愛に生きる」と一致します。求愛ダンスは、ネット動画でみることができますよ。美しく、確かに白鳥の湖のダンスを彷彿とさせます。タンチョウのか細い体にしては、また力強い鳴き声で他を圧倒するようですね。さすが“鶴の一声”と称されるだけのことあります。鶴は普段は静かにしていますが、声を出すときは力強く響き、他の鳥の鳴き声に負けず、他を圧倒するように鳴くのでそういうのだそうですね。
チャイコフスキーはロシア生まれの作曲家です。大の旅行好きでほとんど毎年のようにヨーロッパに旅行しますが、タンチョウはロシアに生息するといってもロシアの東南部ですので、直接さすがにその姿を見たことはなかったでしょう。当時ヨーロッパはジャポニズムの影響が強くありました。折り鶴やら、絵画工芸品の題材としてタンチョウは豊富に登場していたはずで、芸術家たちに鶴の舞がインスピレーションを与えた可能性は否定できません(証拠ほ持ち合わせていませんが)。しかし鶴はケルト文化では、死を運ぶ不吉な鳥として知られており、どちらかというと東洋と違い、縁起が悪い鳥とヨーロッパではされています。チャイコフスキーは、以前からバレエ作品を創作したく準備を重ねていましたが、かねてから尊敬しているワーグナーの代表作のオペラ“ローエングリン”を参考にして白鳥の湖の作品を仕上げたとされています。バレエ作品の創作の構想を長らく練っていたチャイコフスキーは、タンチョウの求愛ダンスから着想を得て、バレエ仲間と構想を練る中で、これで行こうと“鶴の一声”ならぬ“チャイコフスキーの一声”で決まったのかもしれません。白鳥の湖は、チャイコフスキーが取り組んだ初めてのバレエであり、意気込みは相当のものでありましたが、残念ながらその初演は不評に(ストーリーが分かりにくい、振付が悪い、ダンサーの技術の問題など諸説あり)終わったようです。落胆のあまり譜面も彼は自室の奥にしまったままとしました。チャイコフスキーの没後、振付師のマリウス・プティパとその弟子のイワノフにより改訂、ストーリーも分かり易くし、音楽も入れ替えて蘇演。今度は大成功をおさめます。

 

ところでチャイコフスキーの発した声をネットで聴くことができます。エジソンの発明した蝋型蓄音機にルビンシュタインら音楽家の仲間たちとの愉快な会話が録音されています。チャイコフスキーの発声とともに、彼の吹いた口笛も録音されています。私のチャイコ像は、几帳面(日記や家計簿、手紙をきちんと残している)、割とこすい(新しい楽器チェレスタを紹介され気に入り、バレエくるみ割り人形に取り入れた。その時ライバルのリムスキー・コルサコフにはこの楽器のことを教えるなと言った)、美少年が好き(お気に入りの少年への赤面物の手紙も残っている。LGBTに属することは今や多くの学者が認めるところとなっている)、意外と打たれ弱い(バイオリン協奏曲の評判が当初悪くひどく落ち込んだ)でした。私の勝手に想像していた声とはだいぶ違って、その声は、鶴の鳴き声にも匹敵する、意外にもかん高く力強い印象の声でした。そのチャイコフスキーも、私の大好きな「交響曲悲愴」の初演を指揮して大成功を収めた1週間後に流行り病のコレラに感染して命を落としてしまいます。カフェで人に止められたにもかかわらず生水を飲んだことが原因だとか。頭ではわかってはいるものの自制できなかったのですね。小生も心しなければ。