お電話

メニュー

スタッフブログ

幕末豆知識

2020/05/18

 

新型コロナ感染症の影響で、TV番組も改変を強いられていますね。そんな中、かつて放映されて絶大な人気ドラマとなった「JIN-仁-」を再編集した特別編「JIN-仁-レジェンド」が放送されました。ステイホーム週間での放映のため、ご覧になった方も多いと思います。命をみつめるドラマ。『神は乗り越えられる試練しか与えない』というフレーズもこの新型コロナ感染症の深刻な時期と重なり身に沁みます。野風(のかぜ)さんが、フランス人と結婚して、再発乳がんを抱えながらも妊娠し、出産を迎えるシーンがありましたね。しかし横位分娩(胎児の腕が先行して分娩する状態=そのまま自然分娩することは不可能な状態)となり、母児ともに危険な状況となります。あまり帝王切開執刀の経験がないと弱気になる南方仁を、南方仁の教育の元すでに医師として活躍している咲さんが叱咤しながら手術を進めます。母児共に危機を乗り越え、女の子“安寿(Ange)”ちゃんが生まれます。最終回では、安寿ちゃんの両親つまりフランス人の夫と野風さんとも亡くなった後(ドラマではここはさらりと語られるのみです)、咲さんが、安寿を育て、生涯独身を通したことがわかります。南方仁のことを、他の仁友堂のメンバーも同様、何故か記憶から無くしてしまい(歴史の修正力が働いたということになっていました)、かすかな記憶をたどって仁への想いを手紙に残したのを、現代で訪れた橘医院の子孫に医院内に案内され古くより伝えられた書簡の中から読みます。ここ感動的なシーンでした。子孫というのは、医学史家という設定になっていますが、野風および友永未来の役どころの中谷美紀が再び登場し演じています。野風の5世代くらい後の役どころでしょうか、この辺り良くわからない展開ですが、それはそれでよいとしましょう。“バックトゥザフューチャー”、 “君の名は”などいわゆるタイムマシンや、パラレルワールドの物語においてはあまりつっこみすぎるとわけわかんなくなっちゃいますもんね。野暮なことはやめましょう。ちなみに、当ドラマで医療監修をしておられたのは順天堂大学名誉教授の酒井シヅ先生でした。医学史家としてはもっとも有名な方ですね。

 

先日、飯能方面299号線へ一人ランに出かけました。西武線の正丸(しょうまる)駅の駐車場に車を停め、そこから吾野(あがの)駅まで走って下り、折り返して正丸トンネル手前までひたすら登り再び折り返し、正丸駅まで戻ってくる約15㎞のルート。正丸駅はトレイルや山歩きの基点になっているため駅前の駐車場にはそれらしき方たちをみかけましたが、今回のランのルートは車やライダーはひっきりなしに通りますが、さすがにランナーはおろか歩行者と全く出会いませんでした。ところで今回のランでは目的がもう一つありました。正丸駅から正丸トンネル入り口までの間の国道沿いに、わが国帝王切開発祥の地の記念碑があるのです。目的とは、そう、記念碑を訪ねて、写真を撮ってくることでした。登りで撮影をして感慨にふけっていると近くの民家の庭先で、三輪車に乗った男の子とそのお父さんらしき方が遊んでいるのを見かけました。そのまま正丸トンネルまで走り、折り返してくると、まだ見かけましたので、声をかけてみました。お父さんと思った方が、『本橋(もとはし)家はそのほうでは有名らしいですね。産婦人科関係の先生方がよく記念碑を訪ねてこられます。私は嫁と結婚してこの本橋家に入ったんです。』そうすると男の子は、“本橋みと”さんの直系子孫ということか。少しくお話しさせていただいて、さようならとバイバイすると、三輪車にまたがったままバイバイしてもらいました。本橋家には帝王切開が実際に行われた小屋も現存しているそうですが、今回は突然の訪問でしたので、見学を申し出ることは遠慮しておきました。時は1852年(嘉永5年)、ペリーの乗った黒船が浦賀沖に来航した翌年のことです。この地で、難産に苦しむ産婦、(当時の秩父郡我野正丸)本橋みと(敬称略) が、横位分娩となり、あとは当時の医学では力及ばず母体は苦しみながら死の転帰を待つのみです。この状態を打開すべく、秩父の産婦人科医伊古田純道(いこだじゅんどう)と飯能市岡部均平(おかべきんぺい)の二人が、家族本人と相談の上、果敢に帝王切開に挑みます。麻酔はほどこされません。もちろん医師達には帝王切開の経験はなく、オランダの医学書を観ながら手術を行ったとされています。術後、感染症や腸閉塞などに苦しみましたが、産婦は良く耐え、およそ2ヵ月で全治。その後なんと89歳という天寿を全うしました。

 

1987年6月12日、手術後135年を記念して「本邦帝王切開術発祥之地記念碑」が埼玉県飯能市坂元に建てられました。手術の特筆すべきことは少なくとも3点あります。まず記録に残る我が国最初の開腹手術であるということ。次に2人の医師は同じ埼玉県の蘭学医師、小室元貞の薫陶を得て、初めて医学書に記載された手術を見様見真似で実践し成功せしめ、彼らは改めて西洋医学の優位性に感銘し確信を得たとのことです。そして最後に手術の必要性、内容、そして起きうる合併症について手術前に本人家族に説明した上でなされたということ、つまり今でいうインフォームドコンセントですね。

 

ところで、橘咲さんが作る南方仁さんの好物は、揚げ出し豆腐です。―先生、夕げは湯豆腐と揚げ出し豆腐どちらがよろしいでしょうか?―揚げ出し豆腐でお願いします!ヒロインの咲さんと仁の愛のシンボルとして登場しますね。現代に戻って仁が立ち寄った橘医院でも、立花美紀役の中谷美紀に、「先生、揚げ出し豆腐はお好きですか?」と尋ねられます。さて揚げ出し豆腐に使う豆腐は、絹ごしと木綿のいずれを使うか好みが分かれるようですね。江戸時代を舞台にした時代小説に、山本一力作の直木賞受賞作『あかね空』があります。上方から江戸へやってきた豆腐職人の永吉が、江戸っ子になじめない絹ごし豆腐を苦労しながらも作り続け、おふみと苦労を重ねやっと表通りに店を構えます。親子2代にわたる人情の機微を描いています。

 

英語圏や、ドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語圏など、世界のさまざまな言語圏で“tofu”が単語として定着しています。豆腐は中国から遣唐使によって日本へ伝えられたとされています。少なくとも鎌倉時代末期には民間へ伝わり、室町時代には日本各地へ広がり、江戸時代には庶民の日常の食材となったらしい。当初は江戸では木綿豆腐のみでしたが、元禄時代に絹ごし豆腐を発明した豆富料理店根岸『笹乃雪』は現在まで暖簾は続いています。当時庶民に親しまれたのは豆腐の田楽であり、豆腐を串にさして焼き、赤みそを付けて食べる料理でした。天明2年(1782年)に出版された料理本”豆腐百珍(とうふひやくちん)“には、100種類の豆腐料理が紹介され、かつその調理法が記載され、当時大ベストセラーになったとのことです。豆乳ににがりを加え容器に入れて固めたもので、水分を多く含んでおり滑らかな舌触りをもつ、これが絹ごし豆腐。この固まった豆腐を布を敷いた容器に入れ、圧力を加えて水分を抜いたもので、しっかりとした触感とより濃厚な味わいのある木綿豆腐。絹ごしと木綿豆腐の違いについて、小生が小学生のときに、「豆乳を絹の布で濾すからきめが細かい豆腐ができて絹豆腐、木綿の布で濾すから目が粗くて木綿豆腐」と答えて、母親に笑われたと、最近、とある友人に話したら、「えッ自分もそう思ってた、違うの?」と返答。意外にそう勘違いしている人多いのかも。

 

現在日本に消費される大豆は概ね輸入に頼っており、その大半は米国産大豆です。ところで、調べてみると、世界最大の大豆生産国の米国に最初に大豆を紹介したのは実は日本だったということがわかり意外でした。きっかけは日本の漂流船でした。1850年12月日本の樽廻船栄吉丸が難破漂流していたのを、米国の貿易船が救助し全員を米国へ連れていきます。このとき積み荷の中の大豆種子が初めて米国に紹介されます。1853年(嘉永4年)に栄吉丸の船員を乗せた、ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航します。「太平の眠りを覚ます蒸気船」ですね。鎖国政策の解除にむすびつく大事件でしたが、同時に彼らに同行した調査団が、1500~2000におよぶ農産物や植物の種子を米国に持ち帰ります。とくに日本豆と呼んだ大豆が注目を浴び急速に米国で生産されるようになります。

 

ところで大豆からつくる重要な食品として豆腐とならんで醤油があります。こちらも歴史は古く中国から伝来したものらしいですが、日本産の醤油は、江戸時代初期1647年~、長崎から東インド会社を通じてオランダから西洋諸国へ高価な調味料として大量に輸出されます。長崎出島の『金富良(こんぷら)社』が輸出をおこない、主として現在の大阪堺市でつくられた醤油を途中での腐敗を防ぐために加熱殺菌し、コンプラ醤油瓶に密閉して海外に送っていました。コンプラとは、ポルトガル語のCompradorに由来するそうで、買い付け、仲買人の意味だそうです。記録によるとフランスの美食家・大食家ルイ14世が、醤油をことのほか気に入って肉料理の隠し味として調理させたとのことです。ただしこの調理のレシピは現存していないらしい。上方の醤油が断然、江戸の醤油よりは質が優れていたようですね。『くだらない』は、江戸の醤油をして上方へ『くだらない』ということから、できた言葉だとか。しかしヤマサ醤油(1645年創業)やキッコーマン(江戸時代初期創業)醤油などが製造に工夫を重ね、上方醤油を駆逐し、やがて江戸の醤油の中心となっていったようです。ドラマの中でも、ヤマサが仁の抗生物質ペニシリンの製造に資金援助する場面がありましたね。今でも、ヤマサやキッコーマンは醤油や調味料のみならず医薬品分野や診断薬開発部門でも活躍しています。

 

さて橘咲さんの美味しそうだった揚げ出し豆腐ですが、見たところ絹ごしのようにみえる?と思っていたら、すでに劇中でもたびたび登場する橘家の食事を、以前セブンイレブンでも再現しコラボ販売していたようです。 “橘家の揚げ出し豆腐”は、“薄衣で揚げたなめらかな絹豆腐に、だしと返しの製法で風味良く仕上げたれをかけた一品”。知らなかった。

 

次号は世界初の試み、オンライン駅伝の模様をお送りいたします。乞うご期待。