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憧れのメーテルと機関車

2019/12/13

(C)松本零士・東映アニメーション

 

 

漫画家の松本零士さんがイタリアのトリノで体調を崩し救急搬送され、脳卒中かと緊急報道されましたが、精査の結果、重大な疾患ではないとのことで退院。帰国後、元気な様子で記者会見されていました。ホットしましたね。松本零士さんといえば、子供の頃、『男おいどん』少年マガジンの連載で愛読していました。老アパートに住む、赤貧の若者、大山昇太(おおやまのぼった、自分のことを“おいどん”と呼ぶ)の、バイタリティあふれる人間味のあるストーリーが展開していきます。一緒に住む『トリさん(非常食として飼われている鳥。喋る)』、下宿屋のバーサン、紅楽園のオヤジ、などの特徴あるキャラクターに加え、いつも注文する『ラーメンライス』押し入れの中のサルマタに自生してときに食料にもなる『サルマタケ』、ああ懐かしい。映画『男はつらいよ』の寅さんと同じく、新しいヒロインが次々と現れては、必ず主人公は恋心を抱くのですが、最後はやっぱりふられてしまいます。登場するヒロインは大体、スラリとした涼しげな目元の女性(松本零士さんの女性の好みらしい。かくして小生も少なからず影響を受けておりました)。この作品は松本零士さんの出世作となりました。そして、あの有名なSF作品『銀河鉄道999(スリーナイン)』1977~1981年少年キングに連載が発表されます。連載中にテレビアニメ化、劇場アニメ化されていきます。これは空前の大ヒット作品で、松本零士さんを世界的に有名な漫画家へと押し上げます。漫画の舞台は、銀河系の各惑星が銀河鉄道と呼ばれる宇宙空間を走る列車で結ばれた未来世界です。裕福な人々は機械の身体に魂を移し替えて機械化人となり永遠の生を謳歌していたのですが、貧しい人々は機械の身体を手に入れることができず、機械化人の迫害の対象にされていた。そんな中、機械化人に母親を殺された主人公の星野鉄郎(ほしのてつろう)が無料で機械の身体をくれるという星をめざし、謎の美女メーテルとともに銀河超特急999号に乗り込みます。


松本零士さんによると999号は、実在のSL(蒸気機関車)C62(別称シロクニ、以前のブログでも少し触れた)をモデルとしたそうです。C62はSL・鉄道ファンでは知らない人はいないくらい人気のある大型の客車用蒸気機関車ですが、これについてはまたいつかブログで語りたいと思ってます。そしてミステリアスな美女メーテル。金髪のロングヘア、松本作品によく登場する例の長い睫毛に切れ長の目が印象的です。若きころの小生も含め銀河鉄道999のファンは皆、メーテルに憧れましたね。あの落ち着いて理知的な大人の女性の雰囲気。なおメーテルにもやはりモデルがあるようです。ある情報によると、松本氏の菩提寺でみつけた、6代前の先祖が持っていた写真(クオーターの女性)を参考にしたとのことです。その女性は、『楠本高子』(1852~1938)(写真をウィキペディアでみることができます)であるとされています。やはり細面で切れ長の目をお持ちじゃないですか、かわいい。楠本高子は、幕末の長崎出島で鳴滝塾を開校し日本の医師に西洋医学を教えるなど活躍したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)の孫娘(クオーターですね)にあたります。奇しくも松本氏が生まれた1938年に亡くなっています。母親は『楠本イネ』(1827~1903)(写真をウィキペディアでみれます)、シーボルトの娘(長崎の遊女との間に生まれたハーフ)です。楠本イネは、西洋医学教育を受けた日本での最初の女性産婦人科医でもあったようです。私は見たことがありませんが、かつてテレビドラマ『オランダおイネ』でも取り上げられていますね。


さて小雨の中、川越小江戸ハーフマラソン出走しました。今年から新コースとなり、最後の3㎞地点で大きな陸橋の登り下りがあります。この手前からロングスパートする予定でありましたが、もはや脚が残っておらず。2週前から走力向上のため、初めてインターバル走を練習に取り入れたのですが、当日はその疲れが抜け切れてなかったためか体が重く、結局PBにはるか届かず(泣)。本番前に、慣れないことをやってはいけないな。ところで、ガチのマラソンランナーなら必ずやっているだろう、このインターバル走。マラソントレーニングに取り入れ普及させたのは『インターバル走の父』チェコスロバキアの英雄エミール・ザトペック(1922-2000)です。ザトペックは1952年ヘルシンキオリンピック長距離(5000、10000、マラソン)三冠金メダル走者で、今後三冠を達成する選手は現れないだろうと考えられています。顔をしかめ、あえぐ様に走る様が蒸気機関車のようであるということから『人間機関車』というニックネームをもっていた伝説のランナー(ヘルシンキ大会のマラソン競技での力走の動画はインターネットで見ることできます)。ザトペックが語るところには、13歳のとき、1936年ベルリンオリンピックの記録映画を観て、5000m、10000m走で奮闘する日本人の村社講平(むらこそこうへい)選手(トップで走り続けるも、結果はともに4位だった)をカメラが追い、熱狂的な実況と観客の声援(当時日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んでおりその関係で身びいきを受けていたのかも)の中、疾走する姿に感動したそうです。ちなみにこの記録映画(オリンピア、日本では‘民族の祭典’として知られる記録映画、映像美が素晴らしく、後の1964年東京オリンピック記録映画へと制作理念が継承されているような気がします)は動画で検索してみることができます。その後靴工場の作業員として働き、19歳のとき、たまたま工場長から地元の競技会に出場するよう命じられ、いやいや走ることになりました。しかし予想外に好成績であったため、また村社講平選手への憧れもあって、長距離ランナーを本格的にめざすきっかけとなったそうです。さて1920年代に当時マラソン王国であったフィンランドでインターバル走は生まれたのだそうです。ザトペックが3000mの選手だったころからインターバル走を取り入れ、100mの全力疾走とジョグを繰り返すトレーニングに取り組みました。今ではインターバル走はスピード持久力の向上には欠かせませんが、当時はまだトレーニング法として確立していません。『お前、短距離の選手に転向するのか?』と仲間から揶揄されたこともあったようです。『ぼくは毎日400mを100本走った。間に150mの休息を挟んでね。午前中に50本走り、午後に50本。これを毎日、2週間続けるんだ。それは大変だったよ。』ほんと、大変と思うよ。小生なんかその何分の1もやってないのにしんどいから。後年ザトペックは憧れの『ムラコソ』とどうしても一緒に走りたいと懇願し、来日。1981年多摩ロードレース大会に出場し5㎞を並んで走り、ランナー人生で最高に楽しい走りだったと語ったとのことです。人生いつまでも憧れの人を思い抱き続けるということは幸せなことですね。そのザトペックの名言です。『アスリートはお金をポケットにいれたまま走ることはできない。心に希望を、頭には夢を抱いて走らなければならない』


川越小江戸マラソン大会で、ゴールに駆け込む小生の動画をラン仲間にスマホで撮ってもらってました。たしかに機関車のように喘いで走る姿がそこに映っていました。しかし洗練されたC62のそれではなく、ひどく重たい走りだな。おまけに、ポケットには、ラン後に大会会場ですぐ買い食いできるようお金がちゃっかり入ってる。アスリートの風上にもおけない小生、メーテルに優しく叱ってもらいたいな。