匂いがつなぐ生命と文化の物語

皆さまは、イカに嘴(くちばし)があるのをご存じでしょうか。イカを食することはあっても調理したことがないとピンときませんよね。もっともです。なかなか硬くて鋭いです。私も幼少時(岡山時代)、イカやシャコを調理する祖母を手伝おうとすると「指を怪我せんようにせんといかんよ」と注意されたのが思い出されます。スルメイカでもなかなかの硬さですが、ダイオウイカなどの巨大種となると、その嘴は「生物が生み出した最硬素材」とまで称されます。タンパク質とポリフェノールが巧妙に組み合わされ、金属を含まないのに鋼鉄に匹敵する強度を持つ。材料科学の研究者が真剣に模倣を試みているほどの驚異的な構造らしいです。
さて、このイカの嘴ですが、意外にも臭いの文化に関係しています。マッコウクジラは深海まで潜ってイカを大量に丸呑みします。このクジラによるイカの捕食量と言ったらすさまじく、地球上の人間が食するイカの総量をはるかに超えている可能性があるというから驚きです。マッコウクジラはせっかく1kg もある巨大な歯をもっているのにも関わらず、イカを噛むことはせず、文字通り丸呑みします。歯はオス同士の闘争や性選択に使われているというのもまた面白い。ところで、イカのこの硬い嘴は消化できずマッコウクジラの腸内にそのまま残り蓄積します。やがて脂肪や分泌物と混ざり合い、長い時間をかけて腸内で熟成したあげく、最終的には(排便とともに、あるいは腸閉塞となり腸管破裂後、クジラは亡くなり)排出され、海を漂いながら太陽と潮風にさらされ、蝋のように変質します。これが「竜涎香りゅうぜんこう(アンバーグリス)」です。

竜涎香はアラビア人により発見され、中世ヨーロッパでは奇妙な漂着物として知られていましたが、次第に香料として珍重されるようになります。20世紀に入り登場した香水「シャネルNo.5」にも、かつては竜涎香が使われていました。米国の女優マリリン・モンローが彼女の人気絶頂期に「寝るときは何を身に着けますか?」という質問(今じゃセクハラ質問で完全にアウト)に対して「シャネルのNo.5よ」と答えたのは余りにも有名ですね。この粋な答えに世の男性は悶絶したことでしょう。クジラの腸内容の副産物にすぎないものが、いつしか「愛と官能の象徴」となったのです。偶然の産物がヒトの文化を彩るところに、自然とヒトの不思議な共生を感じます。マッコウクジラの話に戻りましょう。英語ではsperm whale ですが、頭部にあるスペルマセティ器官から名付けられたらしいです。この器官の中の液体が精液と間違えられたらしい。日本では抹香鯨(まっこうくじら)といいます「仏前で焚く抹香のようによい香りがする」と形容されたため、「抹香のような香りを持つクジラ」→「抹香鯨」。ちなみにクジラはゾウと同様、他の陸生哺乳類とはことなり精巣が体内にあります。その方が泳ぎやすいし外敵からも狙われにくいという利点もあるのでしょう。一方決して体温が低いわけではないが、精巣の精子産生機能は損なわれないらしい。高度なDNA修復機能を備え、精子形成が良好に維持されると同時に、がんにもなりにくいという特徴まで持っています。ここにはTP53がん抑制遺伝子が多コピー存在することが関係するらしい。脳が大きいのではなく、この器官のためにマッコウクジラは大きな頭部を持つらしいです。実物でなく図鑑でしかみたことないですが。反響定位のために音を発し、深海でイカを探し当てます。
ヒトはここまで香りに敏感で洗練された文化をもつのは何故でしょうか。嗅覚神経システムにその謎はあります。五感の中でも、視覚や聴覚は大脳皮質を経由し論理や言語を介して高度に処理されますが、嗅覚は直接、大脳辺縁系――情動と記憶を司る領域に結びついています。だからこそ、ふと漂う香りで一瞬にして遠い昔の幼少期の記憶が甦ったり、誰かに強烈な好意や嫌悪を抱いたりする。香りは言葉を超えて心に刺さるシグナルなのです。
ヒトの嗅覚受容体は約400種類。嗅神経細胞は原則として「1細胞1受容体=Gタンパク共役受容体」を発現し、それぞれが特定の化学物質にのみ反応します。しかし匂いの識別は一対一対応ではなく、複数の受容体が部分的に反応し、その組み合わせパターンと強弱によって「匂いの署名signature」が形成されます。たった数百種類の受容体で数十万種に及ぶ匂いを識別できるのは、この巧妙な「組み合わせコード」のおかげなのです。蛍光染色して観察すると、脳の嗅球に赤や緑や青の点が散らばり、それがキャンディーの粒のように見えるため、一部の研究者は「キャンディーニューロン」と呼びました(後述の同名のニューロンとは異なります)。ところで日本には香道(こうどう)というのがありますね。調合した香りを当てて競うのです。日本はこういう文化を高度に洗練させるのが得意ですね。
香りは生殖とも密接に関わってきました。動物界ではフェロモンによる交信が当たり前ですが、人間でもその影響は残っているようです。ある研究では、男性に女性が着用したTシャツを嗅がせ、排卵期のものを嗅いだときに男性のテストステロン濃度が上昇し、さらにその女性を魅力的と評価する傾向が見られました。無意識のうちに「繁殖のサイン」を受け取っているのかもしれません。文明社会に生きる私たちも、進化の名残を抱えていることを示す興味深い知見です。
ここで登場するのが「キスペプチン」というホルモンです。2003年、日本の研究者がmetastatinという腫瘍転移に関係する化学物質を報告しました。その後、米国ペンシルベニア州ハーシーにある研究グループがこのペプチドを精製し、「キスペプチン」と命名しました。研究室の近くにはチョコレートで有名なハーシーズの工場があり、シンボルは「キスチョコ」。この甘い連想が名前に込められたのです。

Central Mechanism Controlling Pubertal Onset in Mammals: A Triggering Role of Kisspeptin(Yoshihisa Uenoyama.2019)より引用
さらに、このホルモンを分泌する神経群はKisspeptin、Neurokinin B、Dynorphinを同時に発現することから頭文字を取って「KNDyニューロン」と呼ばれます。「キャンディーニューロン」とも呼ばれています。キスペプチンは視床下部でGnRH分泌を誘発し、生殖機能全体を制御する「マスターキー」です。さらに近年の研究で、性的刺激やロマンティックな映像に対する脳活動を強めることが示されました。健康な男性にキスペプチンを投与すると、扁桃体や海馬といった「恋愛・欲望」に関わる脳領域が強く反応し、性的嫌悪感も軽減されたという結果も報告されています。匂いや映像などの刺激がキスペプチンによって「ブースト」されるのです。研究はすでに臨床応用にも踏み込んでいます。キスペプチンの注射は、視床下部性無月経の女性における排卵誘発の新しい手段として試みられています。従来のGnRHアゴニストやhCGと比べ、副作用が少なく、より生理的に近いホルモン分泌を促せる可能性があるとされています。
また、嗅覚と生殖の関連を示す病態として有名なのがKallmann症候群です。嗅覚異常と性腺機能低下が同時に起こり、嗅覚の神経発達とGnRHニューロンの移動が共通の経路に依存していることを教えてくれます。つまり嗅覚と生殖は、神経科学と臨床医学の両面で切っても切れない関係にあるのです。ちなみにアドルフ・ヒトラーの体を自らピストルで打ち抜いた際に流血が付着したソファの血液の遺伝子解析が行われ、Kallmann症候群であったのはほぼ確実だというニュースが先日飛び込んできました。当時の医療だと診断はできなかったですが、真実だとすると遺伝性疾患であるので、自身で主張し実行した国家的優生学思想に反しているように思えてなりません。
子どもの頃、岡山の母の実家で育った私は、祖母によく遊んでもらいました。祖母は果物が手に入ると、真っ先に仏壇に供え、線香をあげ、私を膝に乗せながら手を合わせてよく祈っていたものです。私の生まれる2年前に夫(つまり私の祖父)を亡くしているのです。ただ私は、その果物を食するのがどうも苦手でした。岡山ですから、マスカットや桃などが特産品なのですが、祖母に「外でようけ走ってたから、おなかがすいたろう。果物、たくさん食べられえ」と勧められて食べようとするのですが。いつも線香臭くて苦手でした。昔の線香は今のとは違い、抹香臭が強くて。どの果物もみなその臭いが付いていました。今でも、果物をいただくとき、なんとなく抹香臭くないかクンクン嗅いでチェックしつつ、幼少時代をふと思い出すのです。臭いというのは不思議なものです。